昭和四十三年十二月十五日 朝の御理解


御理解第八十四節
「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」


 細々でも信心が続いておるという意味ではないです。長う続かねばと。細々でも長う続いておる。もう私の方は何十年、もう七十年も八十年も信心を致しております。金光様の信心を爺の代から親の代という風に続いておりますというても、ね、細々とした、ね、信心が続いておるというのなら、じゃない。これは繁盛に繋がらなければ駄目ですね、繁盛に繋がる道。
 一番初めに、その、驕りがましい事をすなと、ね。驕りがましいという事が一番初めに言うておられるところですね。これは、やはり容易ならない御理解だなぁと、こう思います。
 言わば、おごりがましいことをすると繁盛の道がついておっても、それがいうなら消えてしまう。だから、これは細々と長年、何十年、信心が続いておるというようなことではない。細うても長う続かねば繁盛ではないぞと、ね。
 皆さん、信心を頂いて、信心の有難いという心が、まあかすかにでも信心ちゃ有難いもんだなあと、それをその生き生きとした実感を以て感じられるでしょう。その信心の喜びというか、そういう実感がね、驕りがましい心を出しますとねえ、その信心の喜びというものが、実感が薄くなったり消えたりするんですよ。
 私は、その事をここでは教えておられると思うんですねえ。あすこに行った時ばっかりは、もう有難うしてこたえんごとして参りよんなさったが、すうっと消えてしまうというような人があります。それは必ず、その有難さというものをねえ、厳しいというか、修行の心で受けずに甘く受けていくんですねえ。信心の有難さとか喜びとかというものを、言わば安売りするようになる。もう誰んでん彼んでん有難さばこう人に伝えようと。心の中には、その喜びを、ね、その、甘く見る、甘く受ける。
 私は、これは今日この御理解を頂いて、私はおかげ頂いていきよるなあと思います事は、こうして私は四時の御祈念がおかげを頂くようになりまして、まあ三時半に起床さしてもらう。ここには三時四十分位には出て参りますから、少なくともここでは二十分位はじっとその四時の時間を待つのです。その四時の時間を待たせて頂く感動というものが、えぇもうどの位になりますでしょうか、随分な長くなりますけれども、その感動が益々有難いものになっていきよる事です。
 私は、あの、信心の喜びとか感動とかというものは、益々こう募っていかなければいけないもんだと思うですねぇ。益々その有難さというものは踏み広げてゆかなければならないもんだと思いますですねぇ。もう三時過ぎに、もう言わば目が覚めましたら、それから一寸私の心の中には、いわばそれをまぁ一時(いっとき)だんよかよかというような甘い受け方ではなくて、それを心の中に厳しく、もう、その、時計のベルが、例えば鳴らなくても、もうちゃんと起きておることです。その事に厳しく取り組んでおる事です。
 まぁ以前の五時の御祈念といったら、もう十五分にも前に起きりゃ十分で洗面済ます、着物を着る。そして、ぱあっと二階から下に降りてくるだけでしたから、まあ椛目時代。それでも結構五時の御祈念に、まあ取り組んだようにしてから間に合っておった。もう間に合うておれば、それでいいと思った位の私がです、一時間半もいわば早くなったのにもかかわらず、そこんところに本当に、はあこげなこつならはよ思いたちゃ良かった。こういう有難いものならもっと早く思い立ちゃあ良かったと思う程に有難かったのはですね、それが、もうその味が忘れられない。
 ですからその事を非常に厳しく頂く。そうなんです、ね。その事に厳しく取り組んでおる。ですから、その喜びは感動はいよいよ大きいものに本当なものに踏み広げていきよるんです。
 成程三代金光様が、信心は日に日にさらと教えられたが、本当にまあこのような事だろうとこう実感するです。ここの内殿の向こうの襖があいて、あすこに一歩足を踏み入れた時には、もう緊張してます。もうするっと入られません。一遍、こう最敬礼でもしてから入らな入られん。ね、その思いがいよいよ募っていくのですよ。たいがいな人が、例えばこの神殿とか内殿なんかのお掃除をお願い致しますと、初めの間はあそこの部屋でじいぃんとしますなんて必ず言うです、緊張してるから。そのじいぃんとするのがおかげなんです。
 ところがです、それを度々ならしよりますとですね、もうそれが何と言うですか、お広前をお掃除しよっても内殿をお掃除しよっても、あんまり変わらん位な気持ちになってしまう。そん時に頂いたじいぃんとくるようなものをです、いよいよ育てていく為に、私は厳しくその事に取り組まなければ駄目だと。
 細うても長う続かねば繁盛ではないとおっしゃておられる。繁盛に繋がっていかなければ駄目なんですよ。ゆうなら慣れっこになったら駄目だとゆう事です。日に日にさらな心というのは、そういうような心から、私が今日申しますような信心からしか生れてこないと思うんです。
 どういう有難いの勿体ないのとゆうておりましてもね、その有難いと感じておるものを、ね、甘く受ける甘く見る、必ずその感動は薄く、そして消えていくでしょう。その信心の喜びというか感動というか、そういうものをね、それが小さくてもそれを細々であっても、細い細いものであっても、その信心の喜びをです、段々踏み広げてと、それを段々大きいものに本当なものにしていく為に信心が日に日にさらでなからなければならないという事なんです。これだったら絶対繁盛に繋がるはずです。
 ね、同時に道に草を生やすような事をすなと、こう言うておられます。いよいよ驕りがましい事をしないに致しましても、怠るなという事なんです。良い物は手を入れても手を入れてもなかなかよう育たないという習性を持っておる。ところが何でも、まあ雑草的なものであったら、ね、もう手を入れんでもどげな端からでも繁盛しよう繁盛しようとする習性を持っとります。
 あの菊の中に江戸紫、何とか紫ですねえ、小さい紫の菊の花がありますでしょう。何とかですねえ。あぁ都忘れ、ね、都忘れていう菊の花があります。あれをいつも私が好きですから、あのお供え頂くんですけれども、この花ばっかりは、もうどげん手入れたっちゃ消えてゆく、少なくなってゆく。いい花なんですけれどもねえ、この花は。もう皆んな、これは言わばそういうあれなんですけれども、これはよっぽど少なくなるのは少なくなってゆくと、こう言われる。かというて、んなら野に咲いておる野菊のような菊はやっぱり紫の花で花の形もあんまり変わらんようにしとりますけれども、これはもう畔道にでもどんどんどんどん生えてゆく菊です。同じ菊でもそうなんです、ね。
 ですから私共がよっぽどいわば踏み広げて通っておる、その道にです、草を生やすような事をすなとおっしゃる事は、いよいよ怠るなよ、ね、油断するなよと。驕りがましい事はせんにしましてもです、ね、もういつもいつも草を取る気持ちがなからにゃいけんぞ。ね、二三日前取ったっばっかのところへと思うけれども、もう二三日すると草の根がこうやってもう出よう、次から出よう。油断もスキも出来るようなもんじゃない程に、私は信心の喜びの道を、例えば細うても長う続くおかげを頂く為にです、信心の喜びをいよいよ長く続かせる為には、日に日にさらな信心が必要。さらな信心が必要な為には、私共がその信心の喜びを厳しゅう受けてゆかなければいけない。甘く受けちゃつまらん、出来ん。そこんところに、又いよいよ有難さを感じさせてもらう。しかもそれを踏み広げて段々、その喜びが本当なものに育ってゆかなければならない。私の信心が、これから先どういう風に変化してゆくか低下してゆくか、それは分かりません。けれども、なら私の朝の四時の御祈念の、例えばその一事(いちじ)に致しまし、致しましても、これはいよいよ私が有難いものに、私に育ってんならんと言う風に思ってなかったんですけれども、今日のこの御理解頂いてから思いよるとです、私は。
 ははあ私は、この感動をですねえ、もう日々の目が覚めての楽しみになっておる。だからこれがなくなったら、もう私の信心の、もう第一歩が、もう崩れるようなものなんです。だからこれを崩しちゃならんというのじゃなくて、もうそれが楽しくて有難い。それでその事に、ははあ厳しく私は取り組んでおるんだなあと自分で思う。ね、だから私のそのまあ言うなら、その二十分なら二十分余りの間のです、私の心の中に頂く感動というものは、まあ異常なまでにそういう心で御神前に向かう、御神前に額ずかして頂く。そういうおかげを頂いておる事に、私は気付かせて頂いたんですけれども、けれどもこれだけではいけん。これに草を生やすような事をしちゃならんなと、まあ今これを頂き乍ら私も感じておる事でございます。ね、勿論草というのは雑草のことでしょう。雑草というのは放っといても生える。ね、良いものは自然消滅してゆく、放っとけば。けれども雑草だけは、もういよいよいくら放っといてもそれはもういよいよ激しく、その繁殖力というかね、その生えてゆく力というものは強いものである。だから道に草を生やすような事をすなと教えておられるんだと、こう思うのです。
 はあ、こりゃ八十四節の御理解、今日このような風に頂いて、ははあ成程何故驕りがましい事をすなという事を一番初めにもってきておられるかという意味が分かったような気が致します。私は、もう親子孫、信心が細々ながらも続いております。私はそういう意味かと思うておった。決してそうじゃない。その証拠に四代続いておっても五代続いておっても繁盛に繋がってない所があるじゃないか、ね。もう細々ながら信心が続いております、もうそれじゃ、もうそれとは違う。細うても長うと言うのは、その信心の喜びが細うても長う続いておるというのでなからなければ繁盛には繋がらないということ。時々有難かけれども、すぐ有難くなくなってしまうといったような信心じゃ駄目だ。だから、その時々でもよいから有難いものを頂いたら、その有難いものをほんに信心ちゃ有難かのぉと言うてから誰でん彼でん話し散らかすような事するけん薄うなってしまう。ね、話しちゃならんじゃないけれどもです、それを本当に厳しく受けていくという信心、厳しくそれを育てていこうとする信心。
 昨日報徳祭におかげを頂いて、末永先生、壱岐の末永先生の御用奉仕を、あの同期の方達だけで、そのぉ、に、お願いが御本部からあって、あちらへ参っとりました。御本部でも一寸挨拶に見えましてから、あぁ見えとるなあと思いよったら十三日迄残らなければならんと。それで十三日迄の御用を終って、まあ昨日こちらへ帰って見えた訳なんです。そして、もう明日がどっか近所の大祭だそうですから、昨夜帰っていきましたが、帰る時に私は、あのこんな風に、まぁ申しました。
 もう百名余りの同期の人がおったはずですが、百名の中に今布教に出ておるのは末永さんだけだそうです。という程に布教に出るという事は難しいんですよねえ。なかなか踏ん切りがつかんのですよねえ。自信が無いのですよ。ね、けれども末永さんの心の中にはね、何時も椛目、椛目の時代のね、合楽の親先生が生きてござる、合楽の生き方を学んでおる、もう一から十まで合楽流儀でさえいきゃ道は開けると確信をもっておる。それだけの確信もっておるのは百名の中に、まあ自慢じゃないけれども、まあ私だけぐらいなもんだろうという訳なんです。確信を以て、しかも子供二人家内三人を一緒にですからねえ。夜ばっかりは、離れた所に自分の親教会である、お父さんがおられるに致しましてもです、ね、そういうような事を頼みにしてぐらいな事で道が開けるとは思われない。
 まあ小学校の一年生に行っております長男が学校から帰ってきて一番口に見るのは米櫃(笑)。「お母さん、もうお米はこがしこしかないと」ち(笑)。厳しい事だなあと思います。もうその一年生の子供がです、ね、これはお供えを頂かんなら自分だん食べられんと、こう思うのですよ。「あんた方心配しなさんな、ちゃんと毎日毎日御神飯が上がりよるから、ね、御神飯だけでも頂かれるからあんた方心配いらん、米櫃でんなんでもちゃんと神様が下さるからと言うて、お母さんが言うて聞かせよるとですから、この頃は見らんごとなったち。安心した訳なんです、ね。本当に神様を確信し、勿論だから御結界も左の方に置いてある。これが問題になるかもしれんけれども、おかげで現在のところでは問題にもならんですんでおる。合楽の御流儀で、まあ道を開かせて頂こうと思うとりますと、こう言うのであります。まあそういうような布教の一つの難儀ではあるけれども、もう日々楽しい、そうした修行に取り組んでおりますのですから、初めの間今のような気持ちだったら絶対おかげ頂く事間違いないです。
 ね、ところがです、所謂この驕りがましい事をすなという、これなんです。道に草を生やすなというこれなんです。ここんところがね、でけて、これからいきさえすればおかげなんだけれども、その一生懸命のものが稀薄になる、薄くなっている。それで私は帰り掛けに申しました。「末永さん、どこにおっても、どういう、どこでまあ良い目をしてもです、帰ってみるとやっぱりうちが一番良かったと思おうがて」これはもう誰しもそうなんです、ね。旅行なんかして、大変良い目をしてきてもです、帰って、うちに帰ってくつろいでみると何処よりもやっぱうちが一番よいという事に気が付く。だから自分のお家の中にあってもです、ね、やはりここが一番よかという所がやっぱなからにゃいけんと私は言うのです、ね。お座敷もある納戸もある、ね、食堂もある、ね、その、例えば家の中であっても、ここが一番というようなおかげをもっておかなければならない。それには末永さん、何と言うても、ね、どういう時であっても心の上に肉体の上にどういう苦しい時であっても、ここが一番いい所だなあここが一番有難い所だなあと思うのは、私たちはやっぱり御結界でなからなきゃいけないよ、と私は申しました。
 やれやれと言って下がった所、そこがやれやれの場であってはならない。やれやれの場であっても有難い所であってはならない。ところが多くの取次者は、そこんところが、に、よってしまうからおかげにならん。御神前に額ずかせてもらう祝詞座の上はもう自分の身も心も消滅してしまわんばかりに有難い思いをする所はあそこなんです。ね、一番有難い所というたら何と言うても末永さん、御結界ばい。だからここんところがいよいよ本当なものになっていきゃ、私は間違いないと思うたから、そのようにまあ???頂いたんですけれども。
 私達の信心がです、ね、どのような場合であってもお広前に出てくりゃ、それで心の中に安心がでける。どのように心が暗い時であっても心が開けてくる。ここお広前が一番私共に有難い所だというように段々なってこなければならない。ね、同時にその御理解八十四節をもう一回こんなにみやすうみやすう説かす、説いておいでられる、又それをそういう風に頂いておりましたけれども、今日ここで頂きますと、この驕りがましい事をすな、一番最後の草を生やすような事をすなというところをですねえ、私は本当にいよいよ厳しいものに感じます。
 ね、しかもそれをその中にです、育ってゆくものは何かというと、ね、細うても長う続かねば繁盛ではないと仰せられておられる事。だから長年何十年信心が続いておるという意味じゃないです。繁盛につながるもんじゃなからなければならない。それはどういう事かと言うと、信心によって頂くところの新鮮な喜び、ね、いわゆる信心の喜びの実感というものがです、それは例え点で押すだけであってもいい。だからそれが続けられていく為にその喜びを厳しい心で受けていかなければならん。有難かのぉや、有難かのぉやと言っておるだけなら必ず消える。あらあんた昨日あげな有難かった事ござったが、今日は有難となかのち言われんならんごとなってくる。ね、だからそれを厳しゅう受けて立たしてもらう信心。それが私は、私の期せずして、期せずしてっていうか、私の四時の御祈念を頂かして頂くようになってから、この方の事がです、ははあこういう受け方が厳しゅう受けていく事だなあと今これを頂きながら感じておる。これはいよいよこの信心の感動というものがいよいよ本当なものに育ってゆくに違いないと自分でも思うておる。同時にそれだけではいけん。そういう細々の中でも踏み広げて通っておる、その道に草を生やさんですむだけの信心。これは油断、怠慢ね、油断をしてはならない、油断するともうどこのスキからでも雑草が生えてくるという事を教えておられる。ですからこの八十四節は、本当に大事な事です、と同時に非常に厳しい御理解だという風に思わしてもらいますよね。どうぞ。